子供から大人へ変わっていくこと

最近、子供の部分が大人になったなー、と変化を感じることがよくあるようになった。子供だったということだったんだなー、と自分を振り返って理由がみえてくる感じ。子供から大人へ変わったと感じたこと、その中のひとつを書いてみる。

声を出してしまう、話してしまう。気づいたことやわかったことをつい、口に出してしまう。自分の身に起きたことを「先生、あのね」の小学生の国語のように言いたくなってしまう。(そして言ってしまう。)この、自分の気づきや感情を人に伝えたいと思うこと、その感覚が最近変わってきた。「聞いて聞いて!」や「変わったことに気づいたよ!」と誰かに言いたくなるのは子供の感覚がもとである。というか子供の頃に誰もが持っていたはずの感覚、、、多くの子供が持っているであろう感覚。私は最近までそうだった。それがあった。今でもまだある。

そこには求めているものがあった。子供が求めているもの。私の中の子供が求めていたもの。

 

それは、親だ。

 

気づいてほしい、見てほしい、そして大事にしてほしい。よしよしして褒めてほしい。笑ってほしい。そんな、親に親をしてほしいと求める自分。

そこに対して親の目を自分の中で作り、自分に向けることをするようにしていった結果、その子供の部分に変化が少しずつ起きていった。わたしが求めても求めても叶わなかった親。その親を自分の中で作り子供の部分に向ける。たとえば。最近、自分が犬を見ると楽しいと感じていることに気づいた。犬を見るとワクワクするというかつい目で追っている。毛の長い犬が好きみたいだ。

「あのね!今日の白い犬、すごかった!尻尾がねー、毛が長くてねー、ふさふさゆさゆさしててねー!すごいきれいな真っ白でねー!!。。。白い犬がいたの!大きな犬でね、白い犬でね、尾も白かったの!っていうダジャレも思い出したの!(おもしろかった)」

と、それはそれは楽しそうに興奮と共に伝えてくれる自分の中のなにかに

「そうなのー、よかったねぇ、また見れると良いねー。お外に出て良かったねぇ。わんわん見れてよかったねぇー。好きな犬でよかったねー。」

と、受け取る目。(ちなみに好みがあるらしく、小型犬や毛がくるくるしているプードルのような犬はそうでもないらしい。)自分の中の自分の子供の感覚や感情、起きているものに受け取る自分をすること。親をすること。やっていく中で私がほしかったのはただただこれだったんだなー、と満たされていくような感覚を感じる。それを繰り返していく中で(日常的に現在もやっている)そういう感覚そのものが落ち着くというのか、減っていくのを感じるようになった。「聞いて聞いて!」の頻度が減っていくというか。落ち着いてくる。その感覚の起きる回数、頻度が減るとともに訴え方が穏やかになる。激しかったのが穏やかになる。聞いて!の勢いが、元気や活発な感じが、少しゆっくりになるような。

ああ、だから多くの健康な親に親をしてもらって大人になった人は大人なのか。つまり聞いて聞いて、とならない。私は子供だったし、私が子供だったのは親をしてもらえなかったからなのか、と。

身体は年齢と共に大きくなる。食べて寝て、時間が過ぎれば年齢が変わり大きくなる。

心は、違う。子供から大人になるのに必要なものがある。少なくとも私の場合はそうだった。私は本当に心が子供のままだった。親を求める部分は特に。

ただ、子供から大人になることはできる。

これからも私が私の中の子供の部分に親の目を向けて私が私のママをしっかり積極的にしていきたいと思います。大人になるのは少し寂しいけれど。身体はじゅうぶん大人だから。人間社会で生きていくのに必要なことでもあるから。なにより、私が求めているものがわかったから。それをしないわけにはいかないのよね笑。ママを求める海里の存在を知って、ママをしないで放置することは、私の実親と同じになってしまうから。それは嫌だから。(私は私の中の子供の部分に以前海里という名前を定着させ、それに対してお母さんをする存在をママとして作りました)

自分のできる無理ない範囲はまだまだちょっと狭すぎるので、ちょこっとだけ無理をして範囲を広げていくことをこれからも続けていきたいと思います。だってこの子は本当に良い子だから。ずっとずっと良い子だったから。

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