わたしは、今、日常の移動の際にバスか電車を主に利用しています。ごくまれにタクシーを使うこともあります。その中で特に好きな乗り物が電車です。今までは特に何かを感じたり思うことなく電車もバスも利用していました。最近は電車を楽しむことができるようになってきました。乗り方や乗るときに気を付けること、ほかにも色々なことがわかるようになってきました。具体的には、まず大前提として公共の場、大勢の不特定多数の人がいる場であることを改めて理解しました。そして多くの人がいる場での在り方を考え、周囲の人を見て倣う(ならう)ことを勉強しました。
電車が来る前に乗車の目印の前に並び、電車が到着したらドアの両側に分かれ、全員降り終わってから前の人に続いて乗る。その時に、気が変わってやっぱり乗らない、といったことや少しでも早く入れる方へと途中で違う列に行くことのように一人だけ多くの人と違うことをしないように意識する。次に、電車に乗ってからはまず自分のいる場所を決める。席が空いていて座りたければ座り、立っていたければ立っている。とにかく、降車駅までの自分のいる場所をなるべくすぐに決める。そして、決めた後、なるべく動かないこと。カバンの中の探し物でガサガサしたりきょろきょろしたりせずに動作をなるべく減らすことを意識する。いろいろ気になり事があったりカバンの中の何かで何かをしたくなったり、忘れ物をしていないかどうか気になったりいろいろなことを考えてしまうという理由があったとしても、降車駅までは公共の場であるのでなるべく静かにじっとする。寝てしまうのも良い。目をつぶるだけでも良い。まず、そういった態度、振る舞い、行動を身に着けることを学習した。そして、それを意識する中で「外を見る」ことを楽しめるようになった。なるべく遠くを見る意識をしている。目の健康、視力のことを考えてやるようになった。私は視力が悪い。0.1もない。視力検査で一番上のCが裸眼で見えない。視力悪化が大きく進んだ理由にPC,スマホ等近いものばかりを見ることが増えた影響を強く感じている。そこで、なるべく静かにじっとする、を電車内で習得していく中で、「スマホ」や「読書」ではなく「外を見よう!」と思うようになった。スマホや読書は屋内でもできるが電車の窓から景色を見ること、遠くを見ること、せっかく電車に乗っていて遠くの景色を見ることができるのだからと視力のことを考えて眺めるようになった。マンションや建物の工事や増える一方の電線は憂鬱にもなるけれど橋や川、大きな川の川原を見ると少しうれしいと感じる自分がいるのを最近分かるようになった。川や水、流れ、動きがあるものや動くものが好きみたいだ。釣りをしている人や犬の散歩をしている人を見た(見つけた?)時も少しラッキーに会えた気がする。季節の変化や色々なものに気が付き、またその発見がうれしい。そんな風に公共の場で静かにじっとする、を習得しながら外を眺めることを楽しむことも一緒に習得をしている。
私は今まで本当に知らなかった。わからなかった。人の中での過ごし方や気をつけるべきこと、気を付けるときのやり方。人は何に迷惑と感じたり嫌だと思うのか。私のいままでの過ごし方(少なくとも意識するまで気を付けてこなかった過ごし方)はどれだけの人に迷惑や嫌な気分を与えていたのか。そうやってきちんと立ち居振る舞いを学ばないでいた時に今のように外の景色を見て楽しむ余裕がなかったのはある意味当然だったとも今は思う。周囲のピリピリした感じや、なんなの?大丈夫?という妙なものを見るような目を私はどこかで感じ取っていたように思う。だからこそ落ち着かなかったりソワソワしたり妙な不安と一緒にいたのだと思う。ただ、周りからは「自由だ」と思われていたと思う。勝手というか。自分勝手な行動をとることにためらいがない。そういう風に見えていたのだと思う。最近、本当に周りが見えるようになった。見よう、知ろう、学ぼうと思い、そういう風に大勢の人を見るようになった。
電車は駅から駅の間の移動中は人の流れもほとんどなく、降りる駅で乗り過ごすことはあっても次の駅で降りれば良いし、いろいろな駅の違いを楽しめることも好きです。路線による違い、駅構内の違い、いろいろと特徴があっていろいろ楽しむポイントも知れば知るほど増えていきます。「そんなことが楽しいの?」「それの何が楽しいの?」と、思っていたのは、昔の私もです。なんでも楽しい、楽しめる、これは知るまでわからない感覚です。楽しむことっていつでもどこでもできるんだなー、と、最近分かりました。ひとりぼっちにならずにたくさん学べる電車が、私は最近大好きです。
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