バスの中で考えたこと

成長記録

今日、私は午後からバスでスーパーに買い物に行きました。寒くなり暗くなるのが早くなったので早めに出て早めに帰ってこよう、そうしたいと思っていたけれど結局ぎりぎりの感じで家を出ました。バスが30分に一本なのでそのバスに間に合ってほっとしました。行きはあまり覚えていませんが座った後最近習得中の「静かにじっとする」を始めるのが早かったのでよかった、と感じました。買い物のバス停で降りてスーパーに入りました。ほしいものが店員さんの作業中だったので二周して買いやすいタイミングの時に品物をかごにいれました。(これも、最近気を付けていることです。人の流れがあるときに反対周りをしないことや無理に買おうとしないこと。スーパーでの迷惑のない行動のとり方として習得中です。)帰りに駅で銀行で小銭を預けようとずっと思っていたのを思い出し、バスの時刻がギリギリで迷ったけれど銀行で小銭を預け、何とか間に合って帰りのバスに乗りました。

そこから帰りのバスで考えたことです。

ほっとしたり大丈夫と思うのは私にとって黄色信号、という考えを思い出しました。いつも大変だと予想していたことやできるか不安だったところが無事に終わったと思った瞬間、別の問題が起きたり終わっていなかったりするのです。安心してしまったり大丈夫だったと思うことが私にはもう、悪いことにつながることなのです。家に帰るまでが遠足というけれど私は家に帰っても安心してはいけない、できない、と思ったりもします。(後日忘れ物に気が付いたこともある)だからバスに間に合ったりトラブルなく買い物できたり銀行も間に合ったけれど、家に帰るまで、いや、家に帰っても眠るまで(夜も眠れなかったりする苦笑)ちっとも安心できないな~、と、帰りのバスの中でそのことを思い出しました。また、そのことから派生して今までの自分のことも考えました。私はこれまでの生き方が悪かったので年齢的にいい大人になってからいろいろなことを学んでいます。子供であった部分を大人になるよう、意識しています。人の中での過ごし方のことです。そうやって今悔い改めのことや時間の過ごし方、他者への敬意や感謝や失礼のない接し方考え方、反省の姿勢が周囲に伝わるといいなぁ、ということも思いました。私が今までの生き方をしてきたことの理由の一つに「気が付いてほしかった」というのがあります。私の存在を知ってほしかった。思いに気が付いてほしかった。それは主にお母さんに対してです。母親というものに対しての子供のものです。だけど、私の今までの生き方は社会にとっては迷惑でしかなく気が付いた者たちからはたくさんの怒りの感情を感じます。本当に私は気が付いてほしい人には気が付いてもらえず、気が付いた大人、社会からはたくさんの怒りをかいました。心ある人の怒りの表現にたくさんたくさん出会ってきました。そんなことも考えました。

たくさん哲学タイムをしました。不労、半不労所得をもし得ることができるようになったとしても、今入院中の父を施設に入れ父関連のことが落ち着いたら働く時間と遊ぶ時間と休憩の時間を世の中の人の反感につながらないバランスや使い方をしていきたいと思いました。

死ぬときに、死にたい。その時が来たら、受け入れるその時の準備をいつも悔いのないようにしていきたい。できれば寿命が良いな、、、、。その時までできるだけ元気でいたいな。

良い子、良いママ、良いわたし。

今日は仲良く過ごせました。かいりちゃんはいっつもいい子。いつもいつもありがとう。

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