昨日の夜ご飯はビーフシチューを作りました。その時にちょっと変でちょっとかわいいやりとりがあったのでその時のことを書いてみようと思います。
昨日はビーフシチューを作ることに決め、牛肉とたまねぎとルウを準備しました。まず、玉ねぎを切ります。まな板、包丁、玉ねぎ。この日は玉ねぎを4等分にしてから皮をむいてうす切りにしました。それを油を入れた鍋にそのまま入れて、そのあとビーフ(牛肉)をトレーのラップを外し、塩をふりました。トレーの上でひっくり返し反対側も塩を少しふりました。と、そのとき、、、
海里「ビーフシチューは、牛肉で作るから、ビーフシチューっていうんだよね?」
ママ「そうね~」
海里「でも、豚肉でも、作れるよね?(同じ工程を踏んで形にはできるよね、とママ解釈)」
ママ「そうね~、でも、豚肉でビーフシチューを作ったら、それはビーフシチューとは言わないわね~」
海里「でも、作れるよね?」
ママ「そうね~、でもビーフシチューを豚肉で作ったら、それはビーフシチューとは言えないから、これはビーフシチューです、といったらうそになっちゃうね~(ビーフ・牛肉/ポーク・豚肉)」
海里「でも、作れるよね?(しつこい子にママ、ビーフシチューは必ずビーフで作らないといけないのか、食べられるものにならないのか、決まりがあるのか、という本意を理解)」
ママ「そうね~作れるね~。ちゃんとご飯にはなるし、使えるし作れるし、それはそれでかいりちゃんの料理として良いよね~。ビーフシチューのルウはビーフじゃないと作ったり使ったりしちゃいけない、そんなことはないし、作っておいしければそれはそれで立派な料理だね~、でもそれはビーフシチューとは呼ばないし呼べないから、誰かに出すなら違う名前が必要だね~。作れるし食べれるけどね~」
ビーフシチューを豚肉で作ったらポークシチューと呼ぶのも変な感じで、豚肉で作ったビーフシチュー?それも変な感じで、でももし作ったらきっとおいしいなにかになるな~、と思いました。ほかにも同じように「しょうが焼き」について考えました。先日生姜焼きを作ったとき、しょうがをおろしがねでおろし、酒、砂糖、しょうゆ、みりん、だしのもとで漬けて焼いて生姜焼きを完成させました。その時のことを思い出し、しょうがを入れなくても作って食べられるな~、と。でもそれはやっぱり生姜焼きではない、、、。しょうがの入っていない生姜焼き、しょうが抜きの生姜焼きは、焼き???豚の焼肉というのもしっくりこないなぁ、、、でもそれも、おいしいなにか、作って食べられる何か、になるのであれば作って食べることはありだな~、と。
私は成長の過程で「決まり」や「ルール」にとらわれることが本当に多かった。それはそういうものである、だからその通りでなければならない、という誰かが決めた謎のルール、決まり。その謎の決まり、、、本当の目的、大筋の目的、本来の目的とはおおよそ関係のない謎の決まりやルール、枝葉末節のこだわりは私が作ったものではなく成長の過程で誰か、なにか、によって私の中に組み込まれたものです。カレーを作るときににんにんくを入れなかったとか。らっきょうと福神漬けがないとか。焼きそばの麺を電子レンジでチンしなかったとか。卵をゆでるときにころがさなかったから黄身が端によった、ゆで卵をむくときにすぐに冷やさなかったからきれいにむけなかった、等々、、、。およそ大筋、本来の目的(材料を使って料理をして食べられる何かにして出すということ)と違うところでわたしはいつもつまずかされていました。ストップをかけられ足を引っ張られていました。謎の決まり、ルールをもとに怒られることや指摘されることを常におびえていました。その声がいつも聞こえてくるようでその考えが行動を遅くしていました。数分でできることが何時間もかかり、時には終わらないこともありました。一つ一つの作業に常に何かを指摘されることの可能性や考えと知らず知らずのうちに私は私の中でいつも一緒にいたのです。
海里ちゃんとママのやりとりはまたひとつ、私に大切なことを教えてくれました。またひとつ、私の心を健康へと進ませてくれました。
悪い考え方をやめるのは大変だけど。今までの当たり前をやめるのは難しいけれど。今までが悪い、今までが悪かったとわかった以上、変わる努力や変えていきたいと思うことを頑張っていきたいと思います。
私の修業はまだまだ続く、、、。かいりちゃんとママがいるので頑張ろうと思います。
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