わたしはいままで表現の仕方を知らなかったんだな、表現の方法が悪かったんだな、と最近よく思います。この文章で言う表現とは言葉や行動や態度やほかにもいろいろありますが「外から見えるもの」のことです。「表」に「現れて」いるものすべてのことです。
表現は「伝える」と少し違います。伝えたいことがあろうとなかろうと、伝えたいという意図があろうとなかろうと、人は生きている限り何らかの表現をしています。
外を歩くとき。猫背でだらっと歩く人。背筋を伸ばして歩く人。進行方向を向いて歩く人。下を向いて歩く人。きょろきょろして歩く人。
ごみを捨てるとき。ゴミ箱へ分別通り捨てる人。なにも気にせずに捨てる人。捨てる場所がない時、持ち帰る人。その場に捨てる人。迷って捨てられず困る人。
他者の存在の有無や他者の存在がある時にその他者が知人かそうでないか、一人か少人数か多数か、不特定多数かでも人の表現と意味は変わってきます。
好きな人、好かれたい人の前ではいつもより張り切ってしまう。力が入る。一生懸命になる。良いところを見せようとする。
先生や上司の前では怒られないように、失礼のないように、普段と違う意識を持った行動をする。
一つの出来事がある時にその場、状況においてどういった人間がどういった行動をとるのか、十人十色です。
わたしは周囲のいろいろな人のいろいろな表現を見てきて自分はどんな表現をできる人間になりたいのか?を考えましたがまだ答えは見つかりません。
だけど、「悪い表現」があることはわかりました。知りました。
それは人の不幸につながる表現です。自分や他者が不幸になる表現はやめた方がいい。そのことを深く強く身をもって知りました。
人間はみな、うまれた時は生きようとする気持ちをもってうまれてきています。(だってみんな、うまれるときにおぎゃーと産声をあげたよね?)その気持ちがある限り生きるための行動をしています。食べ物飲み物を取り入れ、眠り、活動をして食べ物を得るためのお金を得る。それを繰り返して生きています。それが日常生活であり、生きようとする気持ちや行動が作っているものです。その日常生活、日々の流れに邪魔になるようなこと、問題になるようなこと、妨げになること支障をきたすこと、それが不幸につながる表現です。頭(考えること、考え方)に対しても心(感情、感覚)に対しても体(肉体)に対しても。自分と他者のどちらにも。
私が自分にも他者にも問題行動をとってきたことや不幸につながる表現をしてきたことには理由があり、大半は幼少期からの両親や周囲の人間(身内ほか)や環境によるものでした。
私の周囲には不幸につながる表現をする人間が多く、お手本にして生きてきたため私自身もそういう表現をするようになっていました。悪い表現(不幸につながる表現)について私やこれまでの周囲であったことを例に挙げるとうそをつくことや隠し事をすること。無関係の事象や人間に自ら進んで干渉することを好むこと。助けられない、助ける気がないのに大丈夫?と心配の言葉をかけたり状況を聞いたりすること。他者に対し否定や見下しの言葉や目を向けること。自分や相手が困ることを故意にすること。自分が不健康になることがわかっている行動をとること。自分を傷つける行動をとること。、、、etc…。
しかし世の中や社会は違っていました。私は悪い表現、不幸につながる表現の中で生きてきましたが世の中や社会はそうではありませんでした。お互いがお互いの生きたい気持ちを大事にし合いそれをもとに日常生活を作り問題となることや邪魔をしないように生活をしていました。信用信頼や愛情の目でお互いに距離をはかりながら。
わたしは今までの表現とは違う表現をできるようになりたいと思っています。覚えていきたい、身につけていきたい、知りたいと思っています。それがどのような表現になるのかはまだわかりません。悪い表現、不幸につながる表現はたくさん触れてきたけれどそうでない表現は多くを知らないし、気が付くことや受け入れることすらできない部分もまだまだたくさんあるからです。
少しずつ、でも積極的に自分の中に取り入れていくこと、また、変化を怖がらずに時間を過ごしていきたいと思います。自分の未来に望む表現とこれから少しでも多くのご縁がありますように。
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